プロローグ(Good Natured)
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生物学者や進化論の立場からものを考える人間の抱えるジレンマ 人間と他の類人猿の行動には、ある程度の連続性がある いかなる性質も人間だけの特徴だけとは言えないのではないか
社会が個人を束縛する形には色々あるが、その代表的なものは道徳的なルール
道徳を進化論と照らし合わせたとき、根本的な疑問が出てくる
ダーウィン進化論によると、ある特徴が発達するのは、それを持っているほうが持たないよりも都合がいいから
人間の道徳システムでは、なぜ集団利益と自己犠牲がこれほど重要になったのだろう?
この議論は100年以上も前から続いている
自然は粗暴で無頓着なものだと考えていたハクスリーにしてみれば、道徳こそ、ホモ・サピエンスが動物を脱し、過去を断ち切るために作り出した剣だった 「社会の倫理的な発達は、宇宙の営みを模倣することでも、ましてやそこから逃げ出すことでもなく、宇宙の営みに戦いを挑めるかどうかにかかっている」
ハクスリーは道徳性を人間性のアンチテーゼとすることで、道徳の起源探しを生物学の議論から外してしまった 「道徳性は、本来ならばそのような能力の発現を阻止するはずの生物学的プロセスが、途方もない愚かさのなかで偶発的に生み出した能力である」
この考えでいくと、人間の優しさは自然の大きな体系の一部ではなく、文化的な対抗力であるか、あるいは母なる自然の失敗作ということになる
ハクスリーの講演から数年後、アメリカの哲学者ジョン・デューイはハクスリーを批判する文章を書いているが、こちらはあまり知られていない ハクスリーは、倫理と人間性の関係を、庭師と庭の関係になぞらえた
庭をきちんとしておくには、庭師の絶えざる努力が必要
デューイは同じ喩えを使って、庭師は自然に対抗するのと同じくらい、自然と協調していると考えた
デューイの庭師は有機栽培を目指す
私はデューイの立場に賛成
道徳の体系は普遍的なものであり、それåを発達させ、運用していこうとする傾向は、人間性に不可欠な要素でなければならない
進化論の枠組みで考えるために、他の動物にも、道徳と言えるような要素は発見できないものか探ってみることにした
進化生物学者が関心を持つのは、いかにして道徳性が発達したかということ
本書ではむしろ道徳性の起源に注目したい
認知行動学とは、物事を認識し、欲し、理解する存在として動物をとらえる学問
私は霊長類を専門とする講道学舎なので、取り上げるのはどうしても霊長目が中心になる 私の仮説は霊長類に限ったものではないので、知識の許す限り数多くの動物を登場させた
それでも霊長類に特別な関心があることは否定できない
人間が倫理性を身に着けた背景には、そうした行動傾向の一部を抑え込む目的もあっただろう しかしその過程で、人間は新しい行動を発現させるようになった
動物行動学の最近の成果を広く一般に理解してもらうことが本書の目指すところ